STORY

変革期1986–1995

世の中がバブル景気に浮かれる中で、「牛肉輸入の自由化」がスタート。ノウハウがなくても扱いやすいチルドの輸入牛が大量に入ってくることで、その恩恵はダイリキ食品だけでなく量販店にもおよび競争は激化する。また1992年、「大店法(大規模小売店舗法)」改正によって、大規模なショッピングセンター(SC)の出店が可能に。この動きを事前に把握し、将来的な商店街の衰退を予測し、出店戦略をSCや量販店へと切り替えた。いわばこの2つのピンチをチャンスととらえて、ダイリキ食品は関西から関東、中京地区へとその勢力を拡大。売上も100億円を突破する。同時に、2つ目の柱をつくるべく「外食事業」への挑戦が始まった。

ピンチをチャンスへ。
牛肉自由化と大店法改正の大波を乗り越えて。

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1986年より始まった「バブル景気」と呼ばれる空前の好景気によって、ダイリキ食品も急成長を続けていた。こうした好業績の陰で、経営戦略の見直しを迫られる2つの大きなうねりが起こっていた。1つ目が「牛肉輸入自由化」、2つ目が「大店法改正」だ。
「牛肉輸入自由化」は、欧米諸国が農業や畜産業など日本の閉鎖的な市場に対して、門戸開放を主張。1991年より牛肉の輸入は自由化された。しかし髙橋健次はこれを「絶好の好機」と捉えた。なぜなら、取扱量に制限のあった輸入牛を、思うがままに扱うことができるからだ。事実、「牛肉自由化」によってダイリキ食品は活気づき、1992年には売上高100億円を突破した。しかし同時に、肉の保存方式が「冷凍」から「チルド」へと進化したことで、特別なノウハウを持たなくても取り扱えるようになったため、大手量販店にも輸入肉の恩恵は及んでいた。
次は「大店法改正」だ。大型店舗の新規出店の規制を緩和する「大店法改正」の動きは、日米間の経済摩擦解消を望むアメリカの「外圧」で始まった。その結果、大規模店舗出店の際に、地元との調整を行ってきた「商業活動調整協議会」が廃止。1992年に大店法改正が施行され、全国各地に大型商業施設やショッピングセンター(SC)が次々と誕生することになった。
実は、髙橋健次はSC首脳陣との交流によって、改正の2、3年前からこうした情報を得ていた。ダイリキ食品は店舗の大型化に伴い、これまで活気ある商店街に的を絞って路面店を展開していた。しかし、「今はまだ商店街も活気はあるが、いずれ量販店が攻勢をかけてくるだろう。そうすれば人の流れは変わる」と予測して、出店戦略を転換。商店街から量販店に出店の場を切り替えていった。続々と誕生する量販店や大型SCの意向と相まって、ダイリキ食品は関東そして中京地区へと拡大。ピンチからチャンスへ。時代の流れを読み、先手を打つことで、全国ブランドへと成長していった。

2本の脚で立つために。 外食事業への挑戦。

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1991年の「牛肉自由化」は、ダイリキ食品だけでなく大手量販店の肉売り場にも恩恵をもたらした。大型SCや量販店へと出店を加速する中で、次第に量販店そのものが大きな競合になってくるだろうことに、髙橋健次は大きな危機感を抱いていた。「このまま競争が激化して消耗戦になれば、思うような利益が上げられなくなるかも知れない。今後も成長を続けていくには1本の脚でなく、2本の脚で立つことが大事だ」。
新業態開発を模索した中で、髙橋健次が出した答えは、「外食事業への挑戦」だった。これまで築きあげてきた焼肉商材の販売や総合食肉店の経営、店頭での手切り販売という強みとノウハウを活かせる新事業として目を付けたのだ。当時、焼肉といえば、男性イメージが強く、客単価5000円〜8000円が相場。「ダイリキは、肉を毎日のおかずとしてお腹いっぱい食べてほしいという想いで、手頃な価格で提供してきた。その想いは外食事業でも変えたくない」と考えた。
これまでの常識とはまったく違う、ダイリキ食品らしい焼肉屋への挑戦。それは、若者層に焦点をあて「新鮮で美味しい焼肉を、居酒屋感覚で気軽に楽しめる店」というコンセプトだった。メニューに工夫をこらし、常識では考えられない客単価2500円という設定に。若い女性でも気軽に入れるよう、無煙ロースターを採用し、居酒屋風でカジュアルな内装に仕立てた。また、社内には飲食を知る者はだれもいなかったため、社員の中から3名の精鋭を選び、他社の飲食チェーンに武者修行に出させ、ノウハウを身に付けさせた。
こうして1993年3月、「炙屋曽根崎店」を大阪・梅田にオープン。肉屋のカット技術を活かして新鮮な焼肉を気軽に食べられるという噂が若者や女性客を呼び、炙屋曽根崎店は人気店になった。同年10月には第2号店もオープン。これまでにない焼肉屋の誕生によって2本目の脚となる外食事業は、その後、時代の変化に対応しながら大きな成長を遂げることになる。