STORY 1&Dストーリー
転換期1996–2005
「本格的な焼肉を気軽に」という想いをもって展開していた外食事業は、都心から郊外へと出店をシフトし、「2本目の脚」として順調に成長。好調な最中、突然の悲劇がダイリキを襲う。2001年9月10日、国内でBSE騒動が勃発。2003年に再び起こったアメリカのBSE騒動とあわせて、長きにわたって外食事業を苦しめた。また、2001年9月11日にはアメリカでテロ事件が発生。3日後の14日には、ダイリキも数多く出店していた大手スーパー「マイカル」が倒産。創業以来初の赤字へ。ダイリキにとって試練の時代だったが、くじけることなく、世の中から必要とされる「価値ある企業」を目指し、本質的な改善に着手していった。
波状攻撃による苦難。 「価値ある企業」を目指して。

外食事業も順調に成長する中、悲劇の幕は突然に開いた。「社長、大変です! 千葉でBSEに感染した牛が見つかりました」。2001年9月10日、髙橋健次の元に、ショッキングな一報が飛び込む。次いで翌11日には、アメリカで同時多発テロが勃発。BSE報道はいったん収束したが、テロ報道が落ち着くにつれて再燃。そして14日、今度はダイリキが27店舗出店する大手量販店「マイカル」が倒産した。さすがの髙橋健次も、次々と打ち寄せる荒波に大きなショックを隠せなかった。
2002年3月期には創業以来、初の赤字へ。しかし髙橋は、この逆境をチャンスに変えることを考えた。これを機に不振店舗を撤退させることで経営体質のスリム化に着手。加えて、輸入牛肉を多く扱い、豚や鶏肉に活路を見出すことで、2002年通期決算では予算達成を実現させたのだ。
深刻だったのは、外食事業だ。BSEによる顧客の減少に加えて、単価アップを狙った値上げなどにより、多くの店舗が赤字に陥っていた。2003年から本格的に外食事業の立て直しに着手。なぜ赤字になったのか。現場をまわりながら調べてみると「価格設定」「設備やオペレーション」「居心地」などいくつかの課題が浮かび上がった。課題がわかれば、すぐに手を打つ。価格設定を下げるだけでなく、おいしくて値ごろ感のあるメニューに変更。また半年で半分以上の店舗を改装するという思い切った手を打った。さらに残りの16店舗を改装しようとしていた矢先、再び悪夢が襲う。
2003年12月、アメリカの牛からBSE陽性反応が検出。日本政府は牛肉輸入禁止措置をすぐさま実施。多くの個人経営の焼肉店が消えていった。「手頃でおいしい肉を輸入禁止にされてしまってはどうしようもない。こんな中で、投資をして店舗改装を続けるのか」。髙橋健次は悩み続けた。そして出した答えは「続行」だった。「店舗の改装なしでは、お客さまの不満は解消されないし、売上は上がらない」と。この逆境の中で思い切った決断を下したことが、ゆくゆくはお客さまの心をつかみ、「ワン・ダイニング」誕生へとつながっていくのである。